後醍醐天皇
大峰山を開山し、修験道の開祖と成った役行者は、西暦655年位に、大和の国は葛城にご誕生せられ、御年68歳に渡天せられたと山伏問答に伝えられています。つまり西暦655年から西暦723年と成り、後醍醐天皇の時代の600年も前の時代と成りますが、後記の様に後醍醐天皇は、修験道の里、吉野入りすることに成ります。

後醍醐天皇の
(いみな)は尊治(たかはる)親王といった。
正応元年(1228)、大覚寺統の後宇多天皇の第二皇子として生まれた。
母は五辻忠子という比較的身分の低い公家の娘だった。
母はやがて父のもとを離れて祖父のもとへ移ったため、尊治親王は
傳役(ぶやく)(養育係)である吉田定房(よしださだふさ)のもとで育てられた。尊治親王には腹違いの邦治(くにはる)親王(後の第94代後二条天皇、在位1301 - 1308)という兄がいた。邦治親王は誕生の翌年に親王になったが、尊治親王は15歳になってやっと親王の宣下を受け、翌年元服して三位に叙せられたにすぎない。
尊治親王は生まれつき剛毅な性格で、才能豊かな男だったようだ。和漢の学問を究め、歌道や音曲などの技芸に通じ、諸宗の仏教を学んだ。だが、母が身分の低い公家の娘だったため、少年時代に冷遇され、劣等感が強い、その反面、反抗的な性格の青年に育っていった。そうした性格のため、青年時代の彼は、女狂いに走った。

20歳前後で、まず兄の邦治親王の側室を奪い尊良親王()たかよししんのうの他3人の子供を産ませている。次に父・後宇多天皇の側室に手を付け、後の皇太子候補世良親王()よよし親王を生ませている。祖父の亀山院の側室で北畠親房の叔母にあたる女性に護長親王()もりよししんおうを設けている。このように若いとき女性遍歴を重ねた後醍醐天皇は、生涯に17人の皇子と15人の皇女を設けている。

当時の天皇家には、第88代後嵯峨天皇の皇子である後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇(在位1249 - 1305)の子孫(大覚寺統)の両血統が存在した。徳治3年(1308)9月、大覚寺統の後二条天皇が崩御したしたため、その年の12月、持明院統の花園天皇が第95代天皇として即位した。そのとき、後二条天皇の遺児・邦良親王()くによししんのうが皇太子に立てられるはずだったが、邦良親王がまだ幼かったため、父・後宇多法皇の意向を受けて尊治親王が皇太子に立てられた。

しかし、はじめから皇太子・尊治親王は兄・後二条天皇の遺児である邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。その結果、自己の子孫に皇位を継がせることが否定された尊治親王は不満を募らせて、父子の仲は次第に疎遠になっていった。10年後の文保2年(1318)2月、花園天皇の譲位を受けて尊治親王は31歳で践祚、翌月に第96代後醍醐天皇として即位した。だが、実権は院政を敷く父・後宇多法皇にあった。元亨元年(1321)、後宇多法皇が政務を後醍醐に譲って隠棲し、次いで元亨4年(1324)に没したことで、ようやく後醍醐天皇の親政が開始されることなった。 後醍醐天皇の政治的スローガンは「延喜・天暦へ還れ」だったとされている。「延喜」は10世紀前半の醍醐天皇の元号、「天暦」は10世紀半ばの村上天皇の元号であり、平安王朝の盛期として後世から回顧されていた。公家社会のあるべき未来の姿を「延喜・天暦」に求めていたと言って良い。一方、朱子学も後醍醐の政治理念の背景をなすものだった。中国では唐末五代の戦乱で貴族勢力が衰退していた時代に宋王朝が成立した。宋は皇帝に権力を集中させるために科挙を改革して門閥縁故に関係なく有能な人材を登用する制度を整え、皇帝に直結した能吏が皇帝を助けて政治を執る体勢を確立したとされている。

後醍醐天皇は、宋朝の政治体制を皇帝専制の手本と考え、延喜・天暦への回帰するための天皇親政のモデルとして具体化しようとした。そのため、宋の朱子学に通じた学僧
玄恵()げんえを即位直後から重く用いた。玄恵の講義には、後に後醍醐の倒幕計画に関与する日野資朝()ひのすけともやその同族の日野俊基()ひのとしもとなど多くの公家が参加していたという。

後醍醐天皇の政策基調は、鎌倉幕府の権限を縮小して公家政権を確立するにあったことはいうまでもない。しかし、当時の公家政権は武力を持たず、自力で軍事的に鎌倉幕府を倒すことはできない。そこで腹心の部下である日野資朝・俊基に各地の武士や有力者の勧誘の当たらせた。しかし、正中元年(1324)、倒幕計画は未然に六波羅探題に察知され、首謀者は捕らえられ頓挫した(正中の変)。

正中の変では、鎌倉幕府は後醍醐天皇を何ら処分しなかった。そのため、天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習に近づける。元弘元年(1331)、再度の倒幕計画が側近吉田定房()よしださだふさの密告により発覚した。身辺に危険が迫ったため後醍醐天皇は、急遽京都脱出を決断し、三種の神器を持って挙兵した。幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。天皇ははじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するする。しかし、圧倒的な兵力を擁する幕府軍の前に落城して捕らえられる(元弘の乱)。

元弘2年(1332)、後醍醐天皇は隠岐島に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子で還族した護良親王は、畿内の南部でゲリラ的な抵抗を続けており、河内では楠木正成が赤坂・千早の山城によって幕府型の大軍と対峙し、種々の奇計でもって抵抗していた。播磨では赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党という)が各地で活動していた。

水神社の門前には、後醍醐天皇が隠岐に流される途中に、児島高徳()こじまたかのりという忠義の武士が天皇を慰めるため桜の木に刻んだ十字の詩が掲げてある。
天莫空勾践 時非無范蠡 
訓読:
天、勾践()こうせん()むな)しうするなかれ。時に范蠡()はんれい無きにしもあらず
意味:天は姑蘇城に幽閉された越王勾践のような囚われの後醍醐天皇を空しく殺し奉ってはならぬ。時に越王を助けて会稽の恥を雪いだ范蠡のような忠臣がないこともない。

元弘3年 (1333)、名和長年()なわながとしら名和一族を頼って隠岐島を脱出すると、後醍醐天皇は伯耆船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵した。後醍醐天皇を追討するため幕府から派遣された足利尊氏は、天皇方に味方して六波羅探題を攻略した。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて、北条氏を滅亡に追いやった(鎌倉幕府滅亡)。その年の6月4日、天皇は尊氏の軍事的制圧下にある京都に帰京すると、皇居に入って、いわゆる建武の新政を開始する。

すなわち、自らの退位と光厳天皇の即位および在位を否定し、光厳朝で行われた人事を全て無効にし、幕府・摂関を廃した。そして、官司機構の再編に着手し、記録所を再設置した。記録書は太政官機構から切り離された天皇のシンクタンクであり、伊賀兼光()いがかねみつや名和長年、楠木正成らが加わった。

こうして開始された後醍醐天皇の新政は、翌年建武と改元して公家一統の政治を図ったため、後に建武中興とか建武新政と称されている。しかし、建武新政はあまりに時代にマッチしない政策が多かった。性急な改革や恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策、etc.である。したがって、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家達の多くは政権に冷ややかな態度とった。

建武2年(1335)7月、鎌倉幕府14代執権北条高時()ほうじょうたかときの遺児時行()ときゆきが、信濃の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵し一時的に鎌倉を支配した(中先代の乱)。乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏は、彼に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する態度をとった。そのため、後醍醐天皇はは新田義貞に尊氏追討を命じた。しかし、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れ、京都に戻ると楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破る。そのため、尊氏は九州に落ちのびた。

その年、足利尊氏は九州で態勢を立て直し、光厳上皇の院宣を得て再び京都へ迫ってきた。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言する。しかし、後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じが、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し、義貞は西宮で敗れ、都へ逃れ帰った。翌建武3年(1336)1月、足利軍が入京すると、後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗する。

尊氏は後醍醐天皇との融和の途を求め、使者をおくって帰京をうながした。10月、後醍醐はこれに答えて下山した。そして11月には後醍醐天皇は光明天皇に神器を譲り渡して譲位した。後醍醐天皇には太上天皇の称号が贈られ、皇子の成良()なるよし親王が皇太子に立てられたが、天皇自身は花山院に軟禁の身となった。後醍醐天皇と尊氏の和睦は長くは続かなかった。わずか2ヶ月後の建武3年12月21日、天皇は神器を携えて京都を出奔すると、河内経由で吉野に入った。そして自身の復位と延元の元号を復することを宣言し、足利方の討伐を諸国に呼びかけた。これにより京都の光明(北朝)と吉野の後醍醐(満潮)という二人の天皇が対立するいわゆる南北朝の時代が幕をあけることとなった。

新田義貞像
後醍醐天皇は花山院に軟禁されている頃から、息子達を日本各地に派遣して北朝に対抗する勢力拡大を図っている。まず、建武3年(1336)9月、懐良()かねよし親王を征西将軍に任じて九州へ向かわせている。10月になると、尊良()たかよし親王恒良()つねよし親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせている。彼らの軍勢は厳冬と吹雪で大勢の凍死者を出し、ようやく越前金崎城に到着したが、髙師泰率いる足利勢の攻略にあって翌年3月6日に城は落ちた。尊良親王は自害。恒良親王は捕らえられ京に護送され、翌延元3年成良()なりよし親王とともに毒殺さえれた。新田義貞は延元3年閏7月越前藤島で戦死している。後醍醐天皇は彼らの訃報を吉野に移ってから聞いた。

さらに、尊澄法親王()そんちょうほうしんのうは北畠親房とともに伊勢へ赴いている。年があけると尊澄は還俗して宗良()むねよし親王と名乗った。いったん京に戻った宗良親王は、延元元年(1336)9月には奥州に向かう義良()のりよし親王や北畠親房らとともに伊勢大湊を船出したが、途中で嵐に遭い遠江にたどり着いた。そして、その地で後醍醐の訃報に接した。

上記のように、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために、大峰山を開山し、修験道の開祖と成った役行者修行の里、吉野入りし、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。吉野が南朝政権の地として機能するには、後醍醐天皇を支持する多くの公家衆や武将で構成される役所や彼らの居住空間もあったはずである。だが、南朝の政治組織もその構成員も実体はよく分かっていな

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